はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

江戸時代の水システム

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唐津湾に注ぎ込む松浦川の中流域に広がる水田地帯に、「桃の川水路」という地味ながらも素晴らしい利水施設がある。佐賀では知らない人がほとんどいないが、佐賀以外ではほとんど知られていない成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)の手により、江戸時代初頭につくられた施設だ。この人は主に鍋島家の家臣として戦国時代に数々の武勲を上げ、40歳を越えてから治水・利水事業を手がけるようになり、神レベルの仕事をたくさん行ったという。

「桃の川水路」は、上流の高い位置にある井出から取水し、松浦川の下を「馬の頭(うまんかしら)」と呼ばれるサイフォンで立体交差させて、用水の確保が困難だった対岸の水田を潤している。つまり微妙な地形を読みきって、創意工夫を重ねて使える土地を増やしているわけだ。もちろん補修を繰り返して使っているのだろうから、完全なオリジナルというわけではないようだ。この馬頭の写真だけではなんともわかりにくいけど、システム全体を概観するとかなり感激できるよ。

過剰水門

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1983(昭和58)年に完成した六角川河口堰を見に行くにあたり、台風時の高潮被害から地域を守るための「防潮水門」であることは心得ていた。ところが現地で実物を見てみると、想像をはるかに超えた過剰な雰囲気が施設全体に漂っていてのけぞった。堰幅226.2m、ゲート高12.0m、門数9門という規模もすごいが、門扉の構造が上下流面ともに仰々しく、機械室もでかい。そこに立ち並ぶ螺旋階段も鬼気迫るものだ。このワールドクラスのかっこよさには終始大興奮。ちなみにこのことは、(かつて)水門写真家の佐藤淳一さんも同様の印象を持たれている。

その様子から有明海の干満差は侮れないってことは感じ取れたものの、なんとなく腑に落ちなかった。そこで少し突っ込んで調べてみると、もともとは防潮機能に加えて農業用水の確保も目的とされていたことがわかった。つまり、進行方向が明確ではないほど河床勾配が少ない六角川流域の根本的な水不足を解消するために、河口堰を閉じることで河口部を淡水化し、水資源を確保しようとしていたのだ。ところが有明海沿岸のノリ養殖や漁業への影響が問題視されて論争が起こり、高潮時の防災対策以外にゲートが閉められることはついぞなかったようだ。

そんな時代の価値観変化の歴史が背景にあることを知ると、ポテンシャルが十分発揮できないまま佇むこの水門がより愛おしく感じられてくる。またあらためて観に行かなきゃね。

【参考】
Das Otterhaus 【カワウソ舎】|六角川河口堰
環境問題シンポジュウム講演論文集|六角川流域における水秩序と水環境管理

眼鏡橋両岸暗渠

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長崎は見どころがありすぎて困る。数日間の滞在では訪問先を絞り込むことが困難なレベルだ。このため、これまで少し腰が引けていたのだが、このたびチャンスが訪れて一泊することが実現した。その初日、ついでに眼鏡橋くらいは見ておかねばねえと思って、目的地に行く前に立ち寄った。眼鏡橋本体もさることながら、それを守るためのバイパス水路が気になっていたので。

1982(昭和57)年に起こった長崎大水害では、崖崩れや土石流などによって極めて甚大な被害が生じた。中島川も氾濫して、文化財登録されていた石橋群も全半壊しつつ、河川阻害物となってしまった。このことから、防災上の観点から中島川の河川断面を増やすことが急務となったわけだが、かろうじて一部流失に留まった眼鏡橋などを文化財としてどうやって保存するかも議論された。その結果、両岸の地下をバイパスさせて必要な断面を確保するとともに、石橋群を現地保存するという方法が選択された。

もちろんとてもお金がかかったのだろうけど、地域文化を継承するって決断をしたことはとても重要だよね。これによって、長崎の方々はアイデンティティーを大切にすることが意識化できたんじゃないだろうか。そんな風に妄想する一方で、現時点では「ちゃんぽん」や「わからん(和華蘭)」に代表される長崎の地域文化のことがまだ理解に至っていないので、もう少し落ち着いて考えてみたい。

ちなみに現地の方からの強いオススメもあって、早朝の中島川をシーカヤックで体験したわけだが、最後の仕上げとしてこの暗いバイパスに潜入して大興奮したことは言うまでもない。本当に最高の長崎体験になったよ。あ、これも仕事なんだからね。遊んでいるように見えるかもしれないけど…。

長崎でのカヤック体験はこちらから:シーカヤック長崎