はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

抑圧の解放

15年ほど前だろうか。大学の研究室にあった写真集を見て、大きな衝撃を受けた。その写真集には、溶鉱炉の写真がカタログ的に淡々と並べられていた。感情などまったくなく、極めて機械的に、極めて冷徹に。僕はそれを眺めて、激しい感情のブレを味わった。しかし、なんとなく、そのことを忘れようとした。

これが僕の、ベッヒャー夫妻の写真集『溶鉱炉』とのファースト・コンタクトである。もちろん、いまは手元にある。他の写真集もいくつか入手した。

なぜ、そのときに工場を鑑賞しなかったのか。なぜ、いまごろになって工場鑑賞が趣味化したのか。

おそらく、その時点で持っていた“社会性”が邪魔をしたのだろう。“工場を愛でる行為”は“変態行為”に似たものに感じ、“背徳感”を持ったんだろう。つまり、ベッヒャー夫妻の写真集に感動している自分を受け入れることができなかったのだろう。

そして、抑圧した。僕はそうやって、社会性らしきものを身につけていき、なんとなく大人になったつもりでいた。しかし、内にある感情を抑圧しても、感動体験は残っている。しかも、ねじれたかたちで。なにしろ、無意識は理性によってコントロールすることが難しい。だからこそ、なにかのきっかけで、抑圧されたものが解放され、一気に噴出してしまった。

いまの社会は、個人表現が花盛りである。個人から情報を発信することが、すでに一般化している。ネットを含むメディアに溢れている情報は、きっかけとして十分だ。情報化は、抑圧の解放を促す。それどころか、抑圧そのものが希釈されているのかもしれない。オタクもフェティシズムも萌えも、すっかり市民権を得ているわけだしね。もちろん、良いとか悪いとかの話ではない。ただ、明らかになったこともある。

 ー 大人になってから抑圧を解放すると、こじらす。


Hochoefen

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Industrial Landscapes (MIT Press)

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Typologies of Industrial Buildings (MIT Press)

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