はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

美しい景観を目指す前に

美しい景観を創る会」の主張はごもっとも。これまで15年ほど実務や研究なんかで景観に関わってきた者としては、基本的な考え方には賛同する部分が多いし、ありがたいと感じる部分もある。

しかし、住宅都市整理公団総裁の大山顕さんが述べているように、この会の言動は著しく“デリカシー”に欠けているように感じる。要するに、カチンとくる。あなた方も含めたこれまでの世代が、経済発展にウツツを抜かして文化を醸成し忘れた、もしくは、文化を破壊し続けたツケを次世代に回しているというのに、その態度はなんだ、といった具合に。さらに、善悪二元論で捉えた寸評の陳腐さによって、よりいっそうイラッとくる。

これは、かねてから五十嵐太郎氏も指摘しているように(たとえば『美しい都市・醜い都市』中公新書ラクレ)、“言葉足らずの上から目線”ってスタンスがまずいのだろう。国土整備ってのはとてつもなくマクロな視点で考える必要があるし、下手な市民感覚は的確な判断を狂わせることもあろう。なので、もともと“上から目線”なのは必然とも言える。しかも、この会のメンバーは国政に近いところにいる方々が多い。重鎮といわれる存在なだけに、市民感覚が希薄でもおかしくない。

おそらく、同会もその点は理解しているだろう。だからこそ、市民感覚を刺激しやすいものとして、善悪二元論をあえて試みたのだと思う。しかし、結果的には逆効果。デリカシーがない景観を、デリカシーなく論評することで、底の浅さを露呈してしまっている。逆に、これまでの国土整備の世界にはデリカシーがないことを体現し、反省する機会を得ることが目的なのであれば、ある程度成功しているのかもしれない。

そもそもこういう試みは、上から押し付けるものではないと思う。上のほうでやるべきことは、こんな表層の話に捉われることなく、国家の骨格を論じ、公共事業に対する本質的な批判に本質的に応えていくことだと思う。つまり、的確なプロモーション活動。デリカシーを持って。

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)