はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

思考停止のストライプ

「まことちゃん」で有名な楳図かずお氏の住宅が話題になっている。氏のトレードマークである紅白の横縞でペイントしたうえ、外観にはキャラクターをあしらうものだそうで、地域住民の2名が「あんな建物は色彩の暴力であり形の暴力」として建設差し止めを求めているのだそうな。
建築続行も訴訟も、両方やめたほうがいい。おそらく意地の張り合いになって、両者ともに見識の低さが露呈して、見ていて痛々しくなるだろうから。住民は申請を取り下げつつ、氏に近しい方がじっくり諭してあげるべきだと思う。
ついでに、ネット上にある情報を見ていると、悲しくなってきた。日本人が持っていた「上手に空気を読んで調停する」文化は、すっかり崩壊しているようなのだ。「個人主義」という名の下で、「自己中心主義」が蔓延していることよくがわかる。

「自邸なのだから、お好きにどうぞ」として割り切る人がいる。これは、「自分も好き勝手にやらせてもらうよ」の裏返しだろう。スジは通っているように見えるが、そこに公共の観点は存在していない。自己中心的な立場を明確にするだけである。想像力が著しく低く、浅すぎる。
「制約する条例がない以上、仕方がない」として容認する人がいる。これは、「他人が管理するステキな社会に身を委ねたい」という依存心から生じているのだろう。法的には合っているが、自分で思考することを放棄していることを露呈するかのような見解だ。議論するに足る良識を持ち合わせていないのかもしれない。
「芸術家としての表現手法だ」として歓迎する人がいる。これは、「芸術はよくわからないし、結局は自分に関係ない」という裏返しだろう。そもそも多くの芸術家は個人の好き嫌いや自己主張を超越するところを目指しているし、批評にさらされることを覚悟しながら作品に魂を込めている。今回の場合、混同するのは危険だろう。
「近所のおばさんがどうかしている」と反発する人がいる。これは、「人を叩くことで自分の位置を確保する」という自尊心から来ているのだろう。たしかに手順が欠落したヒステリックな反応だと思うけど、建物を容認する理由にはならない。すこしひねった発言をすることで、社会参加している気分になっているのかもしれない。
「景観の良し悪しは、人それぞれ」として容認する人がいる。これは、「美しさという概念を一方的に押し付けるべきではない」という主張が背景にあるかもしれない。それはそれで賛成なのだが、テイストの違いとクオリティの違いを混同している主張に聞こえてしまう。または、自分の審美眼に自信が持てないことの表れなのかもしれない。

こんなことを書いていると、気分が悪くなってきた。でも、僕自身この問題を一笑に付すのではなく、もう一歩踏み込んで考えてみたい。思考が停止している人は話にならないのと同様、思考が停止した国に未来はないもんね。
あ。とりあえず、手持ちの紅白ペイントの写真を載せておく。ちなみに、これを容認する姿勢は、ただの「慣れ」から発していると思う。「慣れ」は思考を止めやすいので、要注意だね。