はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

縁や運や偶然

個人的な話で恐縮だが、僕はここ一年ほど、工場鑑賞を中心としながら、「縁」や「運」や「偶然」を感じる機会がとても多い。そんな人間関係は、実に心地よい。

こうした現象は、やや神がかったように語られることが多いけど、その正体はなんなのだろうか。仮に、これらをそこら辺に転がっている、何の変哲もない「きっかけ」だとしてみる。つまり、誰でも平等に、誰でも有り余るほどに触れることができるものと考えてみる。

まず、限りなく存在する「きっかけ」の中から、自分にとって都合の良いきっかけだけを「選択」し、記憶に留める。選ばれなかった無数のきっかけは、そのまま流されて、記憶に残らない。次に、選択したきっかけに対して、自分にとって都合の良いように「意味」を与える。このように意味を与えられたきっかけには「価値」が生まれる。

この作業、「選択」と「意味づけ」は、「無意識」の中で次々と行われるのだろう。だから、それらが意識に上ってきた時点で、すでに理性による理解が困難になっているのだろう。そんな了解不能なあやふやな状態を心は許すはずがない。了解可能な状態にするために、考え続けるか、他の理由に置き換えるかの選択を、これまた無意識に行う。ここに登場するのが「縁」とか「運」とか「偶然」とか、もっともらしい、しかも、神がかった解釈なんだろう。ひっくり返せば、「縁」や「運」や「偶然」は、自分の欲求の必然的な結果であって、天が与えるものではない、つまり、「運も実力のうち」が正解となる。

そうは言っても、神がかったように感じる気持ちを否定するつもりは毛頭ない。実は僕も「見えざる力」に感謝している。