はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

批評的住宅展示会

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東京国立近代美術館で開催されていた「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」はたいへん面白かったので、その感想などをメモしておこう。昨日が最終日だったのにいまさら感がすごいわけだが、なんだかんだと訪問したのがギリギリになってしまったので仕方ないよね。現地に行けなかった方は、図録である「新建築住宅特集2017年8月別冊/日本の家 1945年以降の建築と暮らし」を入手されるといいだろう。

自分が建築物に対して積極的な興味を持つようになってから、特定の建築家やムーブメントをフォーカスした展覧会はちょいちょい見てきたけど、正直なところ作家性をグイグイ突きつけられて、胃もたれや食あたりを感じることも多かった気がする。しかもたいてい大きな建築物が中心だったし。ところが数多くの個人住宅を取り上げたこの展覧会は、鑑賞者たる自分に選択権があることを明確に意識しながら、主体的なワクワク感を保ちながら全体を見て回ることができた。個々の展示物の物量とこってり感は凄まじいものの、総体としては多様な方向性を概観でき、かつそれらが的確に整理されていたので。

そうした印象を抱いたのは、国際交流基金がバックアップして、ローマのMAXXIとロンドンのバービカンセンターを経由してから日本で開催したってことが効いているのだろう。つまり、世界に対して「現在の日本国の姿をどう見せるか」を勝負所に設定したんだろうね。それは展示物の量によって表現されていたけど、すべてを受け止める前におなかいっぱいになっちゃうことがジレンマだと思ったな。

僕の理解が適切かどうかはさておき、近代日本の住宅の系譜を紐解くの整理の仕方は、あくまでも社会環境の変化をベースにしているようだった。建築界において正統な理解の作法であろう「様式」、社会の構成要素としての家族や人を捉えた結果として表れてくる「都市」、標準化や規格化などを含む社会を動かす経済活動に基づいた「産業」という3つの概念に基づき、そこに時間軸を導入することで13の系譜を提示する構成になっていた。この系譜には「日本的なるもの」「遊戯性」「すきまの再構築」など、魅力的なネーミングがなされていた。このアプローチから、近代日本の変遷を概観するためにたまたま「個人の家」というアイテムを用いたと勝手に理解するようにしたので、自分が持っている興味にがっちり符合して痛快な気分で展示に接することができたんだと思う。

だからこそ気になったのが、「建築家」という人物を軸に展開することが前提となっていたこと。ここら辺って、アート界隈あるいは建築界隈では外せない約束事なんだろうかね。僕自身は工学系デザイン界隈と土木趣味界隈でひっそりと生息しているためか、そこらへんにゆるやかな分水嶺があるのかもねえ、なんて感じた。例えば、個人の家をどう使っているかというユーザーの話や、批評性が少ないが大量に生産されているものなどの話は、やはり前提として欲しいと思ったな。もちろん実際に一部には含まれていたし、そればかりだと展覧会の主旨とはズレてしまうだろうけど。

あと、谷口吉郎が設計した国立近代美術館を訪れる際に一番最初に鑑賞すべきポイントは、なにはともあれ3連の住居表示だと思うな。

新建築住宅特集別冊2017年8月号/日本の家1945年以降の建築と暮らし

新建築住宅特集別冊2017年8月号/日本の家1945年以降の建築と暮らし