はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

図面的理解

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スナップ写真などと違い、建築写真は水平や垂直がビシッと補整されることが多い。言い換えると、網膜上に投影される像とはずいぶん異なる「理想状態」が示されていることが多い。もちろん、良し悪しや好き嫌いの話ではない。人為的に構築された環境がどのように認識されて伝えられるかという、理解の仕方やコミュニケーションの方法の話だ。そして、その根底には空間理解の共通言語たる「図面」の呪縛があるんだと思う。

近現代のものづくりの大半は、図面というコミュニケーションツールを媒介しながらやりとりが行われていると考えられる。図面の知識や技術を身につけるフェーズは、教育においても重要な位置付けにあるだろう。当然と言えばそうなんだけど、思考が言語に影響されるのも必然なわけで、ものの見方は当然と感じた時点ですでに限定されているんじゃないだろうか。

もっと言えば、図面という二次元を経由するがゆえに、三次元には図面特有の事情が如実に反映されているに違いない。事情ってのは、線を引く手間を減らしたいとか、複雑な情報を読み取る手間を減らしたいとか、立体で考えているふりをして平面で検討しているだけとか。案外ここらへんは侮れないと思うな。彫刻的なアプローチをする自動車のデザインなどのプロダクトデザインにおいては、古典的な紙の図面で造形することはあまりないだろうけど、建築や土木ではなかなかそうはいかない。今でも多くのアウトプットは、二次元を組み上げることで間接的に三次元化したものと捉えることができる。たとえ模型を使って検討していても。

そんなわけで、近現代は「図面的理解」の範疇に無意識的にはまり込んでいるのかもね。何でこんなことを言っているのかというと、中心性や水平垂直性などを妄信していた自分をブータンで発見したから。それに加えて、つい先ほどゲーテアヌムの写真を見返したときに、既存の理解の仕方から自由になろうとしているような力強さを勝手に感じたから。そこから、ゲーリーザハなどに見られる通常の建築家とは別次元の立体造形のアプローチが、なんとなく接続してきたんだよな、ようやく。