はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

喪失感

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パリのノートルダム大聖堂で火災が発生し、尖塔や屋根が焼失するというショッキングなニュースとともに、本日の朝を迎えた。人類の至宝が大きく傷ついたことについては、宗教や国が異なるとしても、僕も含めた世界中の人々がなんとも言えない大きな喪失感を抱いていることだろう。

欧州の街には良質の建造物が大量にストックされている。考えてみると、それらの多くは壊そうとする明確な意志がない限り、なかなか失われるものではない。失われるとすれば、建て替えを除くと、戦争やテロが主な理由だと思う。それだけに、今回の極めて象徴性が高い建造物の損壊は、社会のアイデンティティーの崩壊に結びつけたくなる気分になるほどの衝撃であろう。

日本で言えばどんな建造物がこれに相当するのだろうか。法隆寺、東大寺、平等院鳳凰堂、日光東照宮、伊勢神宮、日本橋、姫路城、東京タワーなどを思い描いてみても、いまひとつ像がピタリと重ならない。熊本地震における熊本城はとても近い印象はあるものの、それだけではおさまらない広域災害の一部なわけで。地震や津波などの自然災害が多発する日本において、近代以前は「失うこと」が頻発していただろうし、都市部においてはオリジナルに近い姿を保つことは奇跡以上の事態なのだろう。

つまり欧州と日本では、重要建造物の損壊に対するメンタリティが少し異なる気がする。祈り方というか、なんというか。これはモランディの橋の崩落の時に、なんとなく感じたことだ。もしかすると今回の悲劇をしばらくフォローすることで、このモヤモヤした感覚に関するなにかが見えてくるかもしれないな。

それと関係あるかは知らないが、今朝のテレビニュースの導入でアナウンサーが伝えた「世界的な観光名所の・・」という言葉には違和感しかなかった。観光以前に祈りの場であり国の象徴なわけで。

上の写真は、2011年にパリを訪れた際にセーヌ川のクルーズ船から見たノートルダム大聖堂。巨大な内部空間を生み出しているフライングバットレスに光が差し込み、感動したことを憶えている。カトリック教徒、パリ市民、フランス国民、それ以外の世界中の人々の傷が癒えるとともに、ノートルダム大聖堂が再建されることを祈ろう。