はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

9年後の世界

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2011(平成23)年3月11日午後2時46分、三陸沖で発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震によって、巨大津波や原発事故などを含む信じがたい規模の大災害が発生した。その被災に対して多くの人々のさまざまな努力が重ねられているが、9年を経た現在でも復興は十分とは言えない。避難生活を続けている方々も多く、第一次産業の風評被害も絶えず、廃炉作業はまだまだ遠く長い道のりだ。おまけに新型コロナウィルスによる影響はどんどん拡大する方向にある。

長い年月をかけて育まれてきた地域文化の基盤とも言える「地形」そのものは、急激かつ大規模に変わってしまった。昨年の8月に1週間ほど被災地を転々と移動しながら、その現実の一端を体感してきた。長期に渡る地域文化の復興につなげていくためにも、これからも訪問の機会をつくっていこうとあらためて思う。残された僕らがこの現実から学び取ることは、まだまだいくらでもある。

多くの犠牲者の御霊に心からご冥福をお祈りいたします。

 

若手による設計

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エイボン川の渓谷を跨いでブリストルの街を眼下に眺めるクリフトン吊橋は、156年前の1864年に完成した現役の車道橋。本当にすごいよねえ、僕も大興奮で徒歩と車の両方で渡ったよ。設計者はイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel、1806-1859)だ。この橋の完成は、彼の死後5年経ってからということになるんだね。

この橋の対岸にはビジターセンターがあり、この橋の建設やブルネルの業績などについての展示が行われている。そこで目を引かれたのは、設計コンペで提示された数多くの設計案のパネル。もちろんその内容は極めて興味深いが、よく見ると1829、1830年、1834年など、不採用になったとされる年がバラバラである上に、完成年より30年以上前ということに引っかかった。どうやら、コンペは何度かやり直したようだ。その上、着工直後には暴動が起きて中断したようで、再開されても施工会社が倒産したようで、タワーがようやく完成したのが1843年で、桁や吊り材はコンペ時の設計から改良の手が加えられているようで。紆余曲折がありまくったこの橋の完成は、まさに悲願だったろうなあ。

若干24歳のブルネルがこのコンペに応募した時点では、橋の設計を経験したことはなかったという。その1年ほど前に、父親が主導していたテムズトンネルの現場で起きた出水事故によって、重傷を負ってしまったとのこと。その時に選んだ療養地がたまたまこの場所だったのは、なんという偶然だろうか。この橋の建設が滞っている間のブルネルの活躍はすさまじく、グレートブリテン鉄道の各種構造物、機械類、駅舎の設計や施工のみならず、大西洋横断汽船の建造にも注力している。53歳で生涯を閉じた人生は、ずいぶん慌ただしくもドラマチックだったんだなあ。 

ブロックノイズ的立体構成

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ダムの堤体が地山に接続する箇所は「フーチング」と呼ばれており、その様子は千差万別である。ダムの見どころはたくさんあるけれど、個人的には強く惹かれる箇所だ。覆土や緑化によってその存在を上手に隠しているものもあれば、全く無頓着で生々しいコンクリート塊が露出しているものもある。溜め込んだ水が生み出すとてつもなく巨大な力を岩盤にがっちり伝えなければならないだけに、必然的に暴力的な造形になりやすいのだろう。

八戸の世増ダムの水平垂直面で構成されたフーチングは、とても見応えがあった。岩盤が有している微細な自然の揺らぎが、解像度が落ちた人工のコンクリート塊に変換されたように見え、不思議なリズムが生まれていた。もともと美しさを意図したわけではないだろうけど、エンジニアリングから導いた一定のルールに従って丁寧に造形したことで、結果的にある種の美しさを獲得したと言えるのかもしれないね。

なお、世増は「よまさり」と読むことを、現地を訪れてはじめて知った。