はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

日常の絶景

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『日常の絶景 知ってる街の、知らない見方』という本が出版された。室外機、高低差、避難階段、通信鉄塔、消波ブロック、ダムなど、都市を形成しているのに見過ごされがちな15の断片にフォーカスを合わせて、妄想を交えながらリアルな世界の設定をトレースしていこうという、写真集のような本だ。もしかすると、ちょっと夢見がちなヤバみが漂っているかもしれない。とは言え、このブログをご覧になってくださっている方にはお楽しみいただける仕上がりになっていると思う。

現時点で、ジュンク堂書店池袋本店、三省堂書店神保町本店、丸善京都本店などの大きな書店でパネル展やフェアを実施してくださっているとのこと。本当にありがたい。でも、ありがたさを通り越して、ビビっている。ビビりつつも、多くの方の目に触れてほしいと願っている。

また、ぜひ帯にも注目していただきたい。なんと、僕も大大大ファンである「映像研には手を出すな!」の大童澄瞳さんにご推薦いただいているのだ。まるであの浅草氏が応援してくれているようで、もしかすると<私の考えた最強の世界>が実現してしまうかもしれない。

 

水平の必然性

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道路は地形の傾斜を反映している。アーケードは道路勾配に従っている。歩道に置かれた看板やプランターも地形に従っている。しかし、提灯は重力に従って垂れている。もちろん、道路に貼り付く建物は、重力に起因する人間の都合に従い、水平と鉛直で構成されている。

斜面上の物体は重力の影響が水平方向にも生じるため、なかなか安定しない。つまり、人は水平の床がなければ、安心して暮らすことができないのだ。 人が環境の中に水平面を構築するのは必然であり、それが人為の象徴と言ってもいいのだろうね。

建築の橋

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流山おおたかの森駅の前に、新たなビルがつくられた。その外側には開かれたバルコニーのような階段が付帯しており、とても気持ちの良い眺望体験によって、駅前広場の空間を印象的なものにしている。

既存の建物とは、緩やかな円弧を描くデッキで接続されている。円弧の外側に鋼トラスが配置され、それを含む桁の主要部材は板材で覆われている。橋脚も桁の中心から外側に配置されている。新たな建物と同様、このデッキを渡る体験によって自然と駅前広場に意識が向く空間構成になっている。

このデッキを楽しみながら見て渡った一方で、少しモニョモニョしてしまった。なんというか、もったいないなあという気分。公共事業としての橋に関わってきた身からすると、土木と建築の構造に対するアプローチの違いを過度に感じてしまったのだ。

なにしろ主構造は装飾部材によって覆い隠されてしまい、支間割は力学的な合理性に基づいているわけではなく、橋脚と桁とは半ば強引に剛結されている。この立地条件なら、あんなことやこんなことに工夫を凝らして、軽量で透明性の高い構造デザインが実現しそうなのになあなんて、ついつい妄想してしまう。

逆に、いかにしてユーザーの体験を良いものにするかという命題を解く姿勢は、民間事業が中心の建築には不可欠だろう。それこそ、土木には慢性的に不足している観点だ。こうしたことの積み重ねが、装飾、耐用年数、調達方法、公共空間の捉え方などの違いに大いに影響してくるのだろうね。

まあごく普通の人からすれば、建築と土木の違いなんて全く意識しないだろうし、そもそも構造デザインという価値観は、言われてみなければ意識できないものだろうな。