はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

先駆け吊橋

鳴門海峡の渦潮を跨ぐ大鳴門橋を見に行くたびに気になっていた橋を、ようやくじっくり見る機会を得た。「小鳴門橋」という1961(昭和36)年につくられた3つの主塔を持つ4径間連続吊橋だ。長大吊橋の技術が未成熟だった時代に、淡路島経由で四国と本州を結ぶルートの実現に向けて、徳島県が単独で架けたという。

写真手前のタワーは、競艇場の中からニョキッと生えている。おそらく観客席からは、ボートレースを見守りつつも、この橋をたっぷり鑑賞できるんだろうなあ。なんという贅沢な環境。さらに、この写真ではわかりにくいが、小さな島の上に設置された中央のタワーだけは、4本の鋼材を斜めに組んで強化されている。これ、めちゃくちゃかわいい。

特筆すべきは、橋の両端でケーブルを繋ぎ止めるアンカレイジの造形。現代の吊橋だと、巨大なコンクリートの塊の中に全てが埋没してしまいがちだが、ここは違う。ケーブルがスプレーサドルを経由し、ラッパ状の鋼製のカバーを介して、おもりとしてのコンクリートに吸い込まれていくプロセスが丸見えなのである。

役割が明確で剥き出しのディテールは、まさに「形態は機能に従う」を地で行く潔さ。こういう手の内を明かしてくれる素直な構造物に出会うと、なんだか背筋が伸びる思いがする。

執念の石垣

熊本地震から10年。9年前に訪れた熊本城では、まだ崩落した石垣や城壁が痛々しく放置されていた。その一方で、ナンバリングされた無数の石材が、あちこちで整然と並べられていた。石垣の内側を支えていた大量の栗石も、やはり丁寧に積み上げられていた。

その光景には、必ず元の場所に戻すという、執念にも似た固い決意が現れているようだった。石材の形状を過去の写真と突き合わせ、パズルのように元の位置を特定して積み直す。気の遠くなるような作業の集積を思い、実際に気が遠くなった。昨日のニュースによれば、完全復旧は2052年の予定だという。あと30年近くかかるのか。またしても気が遠くなった。

これほどの労力と時間をかけても元に戻すことには、計り知れない意味があるよね。それは風景の再生であり、未来への責任を果たすことでもある。熊本城の石垣は、日本の土木技術の底力と地域文化の象徴なのだから。この執念の石垣の修復過程を、また見に行きたくなった。

形而上的風景

しまなみ海道を訪れた翌日、今治のホテルでチェックアウト時刻のギリギリまでダラダラ過ごし、15時頃のバスに乗って帰途についた。その間は昼食の時間を除いても3時間超は街を徘徊しただろう。スタートは以前訪れたこともある丹下建築シリーズで、愛媛信用金庫今治支店、今治市庁舎本館、今治市庁舎別館、今治市民会館、今治市公会堂をおさらいした。その後は繁華街や水路跡や漁港などをフラフラと見て回った。

最後にご挨拶のつもりで今治市庁舎を再訪したところ、さっき見たばかりだというのに、全く知らない場所に来てしまったような「ジャメヴュ(未視感)」に陥った。冬の鋭い日差しが叩きつける光と、容赦なく切り落とされたような深い影。延々と続く格子の連続性と、不自然なほど静寂な様相が生み出す断絶感。本来なら住民票だの税金だのといった日常の世俗の極みであるはずの市役所が、世界の向こう側の深淵をのぞき見るような、白昼夢っぽい装置に変貌していたのだ。

もしかすると、デ・キリコがイタリア広場で受けた啓示は、こんな感じだったんじゃなかろうか。職場に戻ってから、2024年に開催された「デ・キリコ展」の図録を引っ張りだして、形而上絵画が生まれた経緯の回想の言葉を確認すると、ますますその想いが高まった。

秋の生あたたかく愛のない太陽が、彫像とともに聖堂のファサードを照らしていた。そのとき、あらゆるものを初めて見ているかのような不思議な感覚におちいった私の脳裏に、絵画の構図が浮かび上がってきた。こうして生まれた作品を、私は「謎」と呼びたいと思う。

ブルータリズムと形而上的な世界観というのは、おそらく相性がいいのだろう。装飾を脱ぎ捨てて、剥き出しになったコンクリートの幾何形態は、祈りや沈黙といった精神性の領域にまで踏み込んでくる。そして、暴力的なまでに思考を停止させようとしてくる。住民票を取りに来た人は、その目的をすっかり忘れて終わりのない午後を漂う羽目に陥りそうだ。