はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

建てなかった建築

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先日、春日部の外郭放水路を取材した際、浦和の埼玉県立近代美術館で開催されている企画展「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」にも行ってきた。ともかく、多少無理して見に行けてよかった。この展覧会から個人的に受け取った、苛立ちや怒りに似た感情に基づく未来への希望は、多くの人と共有したい気分になったな。3月24日(日)までなので、時間を作って行こうね。

昨年後半から複数の関係者の方々から本展のことを伺っていたので、すごく楽しみにしていた。ところが諸々の用務が重なってしまい、昨年末から他の行くべき展覧会にさっぱり行けておらず、この機会を逃すと本展もやばかったというのが実情である。まあ、新潟、広島、大阪に巡回するので、どこかでリカバーできたのかもしれないが。

時間軸と建築家の系譜というスタンダードと思われる整理がなされているためか、建築の専門教育を受けていないなりにもフムフムと言いながら鑑賞できた。もちろん全貌を把握するには、それなりに時間も体力も要した。なにしろ、展示内容はコンペなどの出展作が多いため、極めて強いコンセプトやメッセージが前面に出ており、コッテリした印象が強かった。合っているかどうかはわからないが、そこにはかつては理想の社会をつくるのは自分たち建築家の責任だ!という気概に満ちているように見え、やがてそれは建築界と社会の長きにわたる軋轢に接続しているように思えたな。

とにかく最大の見せ場は、最終盤のザハの新国立競技場。このための準備として、他の展示があるのではないかと思えるほど。わけがわからない状態で葬られた「インポッシブル」建築の展示には、泣きそうになるほどの情念が溢れだしていた。すっかりしょぼくれた気持ちを、山口晃ならぬニセ口晃(会田誠)による「シン日本橋」が、シニカルで乾いた笑いに転換してくれたのは救いだった。いや、これもものすごく重要な問題提起だよね。絶望と希望が入り交じる混沌とした未来が、冒頭のロシア・アヴァンギャルドに呼応しているようだった。

見に行くことはもちろんだけど、図録は必ず入手しようね。カバーとか時系列の整理とか、変態的な凝りよう。十分な情報量とそれらの結びつけ方が巧みで、気になったところを読み解くだけでも楽しい。「インポッシブル」の上の黄色いラインについては、実際の展示を見ればよくわかるよ。

そうそう、展示会場にフォトスポットがないのがとても残念だった。役所的ルールなんぞはさっさと乗り越えて、SNSなどを有効に活用してほしいよね。あと、冒頭のタトリンのモンタージュCG映像のBGMがストラヴィンスキー「春の祭典」だったんだけど、前に進まない永久ループだったので頭にこびりついて離れなくなって困った。