はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

無礼さの果てに

先日、ある学会の研究発表会に参加した。僕自身もとんでもなく久しぶりに発表したのだが、内容の半分ほどでタイムアップという大失態をやらかしてしまった。まあそのことは、いったん忘れることにしている。

発表の中に「風景を眺める体験」という哲学的な問いを正面から扱うものがあり、僕もじっくり聴き入りながら大きな刺激を受けていた。ところが質疑応答の時間に、聴衆の一人がこう言い放った。「言葉を選ばずに言うと、ただの言葉遊びに聞こえる」と。あまりの無礼さに会場の空気が硬直したが、発表者が華麗にスルーしたのであっという間にそのフェーズは終了した。いくらなんでも言葉を選べよなあと、みんな思ったのではないだろうか。

苛立ちを取り除いて考えると、おそらくその発言の意図は、「抽象的な概念の議論よりも、もっと具体の話をすべきではないか」ってことなんだと思う。なるほど、その主張自体は分からなくもない。しかし、研究発表会全体を見渡してみれば、「具体」の話がてんこ盛りだ。というか、その方が圧倒的に多いと思う。その先に進むためにこそ、抽象的な議論も必要になるわけで。そもそも、抽象的な議論と具体的な議論は対立するものではないし。

帰りの新幹線でそのことを振り返っていると、自分の発表内容とも関連してくるような気がしてきた。自分の発表内容をざっくり言うと「都市鑑賞はデザインの筋トレになるんじゃない?」という乱暴な問いだ。その根底にある、「ここにいるみんなも、デザインの基礎トレーニングが必要なんじゃない?」という裏テーマが、あの発言と共通しているのではないかと。

そこでは、「言語思考」と「視覚思考」のどちらもぶん回す必要性を主張した。哲学的な問いに対しては「言語思考」を優位にする必要があろうが、風景やデザインを考える際には、「視覚思考」を支える「観る力」「感じ取る力」「違和感に気づく力」などが必要だと思っていることから。ややもすると言語思考が尊重されている社会状況に、僕は不満や不安を感じているからこそ、今回発表したのではないかと思うに至った。無礼な質問者のおかげで、大事な問題意識に気づくことができたな。お礼なんか言いたくないが。

以下、来年の発表で大失敗を犯さないことを目指して、新幹線の車内で書いたメモを自分のためにここに残しておこう。

・やはりこの分野も、「人材育成」をもっと真剣に取り上げた方が良いだろう
・デザインの基礎能力を身につけるには、「身体づくり」が不可欠
・それは知識や技術の話ではなく、身体性を含めた「審美眼」のこと
・言葉になる前の段階で、まずは感じ取れるようにすること
・既存の意味から脱却して、自分の中にある感覚を信じる力と言ってもいいかもしれない
・面倒だからこの際、「センス」でくくってしまってもいいかもな
・そのあたりは文化芸術に触れる機会が多い「育ち」という、属人的な面が大きい気がする
・ウイリアム・モリスとか柳宗悦なんかは、まさしくそうだよね
・再現性が低いといろいろ困るので、もっと「民主化」を積極的に進めなければ
・アーティストは厳しい修行を経て「センス」を手にするが、参入障壁が高いし、ブラックボックスだよね
・そこで登場するのが、「都市鑑賞エクササイズ」でデザインの身体づくり
・ただし、彼らの修行を軽視することなく、むしろリスペクトにつながる形で