はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

赤いリフト橋

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筑後川昇開橋は、1935(昭和10)年に佐賀県と福岡県の境界をなす筑後川に架けられた可動橋。1987(昭和62)年に鉄道橋としての役割を終えて、すったもんだの後に1996(平成8)年にようやく遊歩道としての人生を歩み始めたとのことである。当初の役割はすでに持っていないけど、今でもちゃんと桁を稼働させて地域のシンボルとしての価値を獲得しているのが素晴らしい。

タワーの高さはおよそ30mもあるが、当時よく使われていた帆船に対応するものだという。細かい部材をリベットで丁寧に接合したディテールも、たいへんすてき。それが動いちゃうんだから、大興奮だよね。鉄道橋のままだと直近からはなかなか鑑賞できないので、歩道橋として堪能できることがありがたいな。

これまでも数多くの可動橋を見てきたけど、それらと比べても筑後川昇開橋はとても親近感が湧く橋だと思った。ついでに可動橋の過去記事を少しピックアップしてみよう。と思って検索してみたら、たくさんありすぎてびっくりした。この橋への親近感以前に、よほど動く橋が好きなんだな、自分は。

 

 

断面に見える斜面

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勝浦港の防波堤から見た漁協施設と集落、その背後にある崖地。2つの尾根の間に住宅があることも、チラリと確認できる。まるでポリゴンフレームのような法枠工の急斜面は、山を垂直にザクッとカットした断面のようにも見え、なにかを説明するためのジオラマ模型のように感じた。

短絡的に、平地を生み出すために山を切り崩してその土砂で手前の埋立地を形成する開発を経済成長期に行ったのかと思ったが、どうもそうではないようだ。1947年に米軍が撮影した写真によると、その時点で集落が形成されていて、メインエリアの埋立も完了していたことがわかる。さらにgoogleストリートビューによると、2015年時点ではモルタル吹き付けの斜面だったことが確認できる。単純に、もともと海食崖である「急傾斜地崩壊危険箇所」の表面を、ごく最近になってあらためてしっかり保護しているんだろうね。

安全のために急斜面を手当てしていても、逆方向の印象である痛々しさが際立っちゃってるよなあ。

リアス海岸の谷

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先週は外房の勝浦を、2泊3日でたっぷり堪能してきた。とても印象深かったのは、なんと言っても海側には開いているけれど、陸側は閉ざされているリアス(式)海岸の地形と、それに由来する生活文化。
あ、僕を含む大人のほとんどは「リアス式海岸」と教わってきたわけだけど、現在の子どもたちは「リアス海岸」または「リアス(式)海岸」と教わるんだそうな。名称変更は2008年前後らしいので、そのうち年齢を推定する質問項目になりそうだね。

多くの集落は急斜面の制約を受けて細長く形成されている。建物はすっかり更新されているものの、地形はそうそう変わるものではないので、様々な場面でなんとなくこの土地ならではの雰囲気が感じられた。ここら辺はできるだけ言語化していきたいな。
そんな集落を巡っているうちに、砂岩や泥岩を削ってつくられたトンネルに強く興味をそそられた。隣接する入り江同士を結ぶ素掘りトンネルから、谷戸の奥で接続されている車両が通行できるトンネル、さらに内陸部の長大トンネルまで、年代を追うごとに移動経路が内陸に進出していっているのかも。

そうそう。この地の周辺には太平洋戦争において日本海軍が開発した特攻艇部隊「震洋」の基地があったんだそうな。特攻艇とは、ベニヤ板でつくったモーターボートに大量の爆薬を積んで敵艦に体当たりするという、とんでもない兵器だ。
その痕跡をあちこちで見ることができた。例えば、上の写真中央の尾根の直下にもトンネルがあったのでチラ見したところ、結構な大きさの空間が形成されていて驚いた。現在は養殖施設に使われているとのことだったが、かつては震洋関連の施設だったらしい。
この地に駐屯した第55震洋隊は出撃しないままに終戦を迎えて、若き特攻隊員たちは故郷に戻っていったそうだ。終戦記念日を明日に控えて、少しだけ勉強してみた。