はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

リアス海岸の谷

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先週は外房の勝浦を、2泊3日でたっぷり堪能してきた。とても印象深かったのは、なんと言っても海側には開いているけれど、陸側は閉ざされているリアス(式)海岸の地形と、それに由来する生活文化。
あ、僕を含む大人のほとんどは「リアス式海岸」と教わってきたわけだけど、現在の子どもたちは「リアス海岸」または「リアス(式)海岸」と教わるんだそうな。名称変更は2008年前後らしいので、そのうち年齢を推定する質問項目になりそうだね。

多くの集落は急斜面の制約を受けて細長く形成されている。建物はすっかり更新されているものの、地形はそうそう変わるものではないので、様々な場面でなんとなくこの土地ならではの雰囲気が感じられた。ここら辺はできるだけ言語化していきたいな。
そんな集落を巡っているうちに、砂岩や泥岩を削ってつくられたトンネルに強く興味をそそられた。隣接する入り江同士を結ぶ素掘りトンネルから、谷戸の奥で接続されている車両が通行できるトンネル、さらに内陸部の長大トンネルまで、年代を追うごとに移動経路が内陸に進出していっているのかも。

そうそう。この地の周辺には太平洋戦争において日本海軍が開発した特攻艇部隊「震洋」の基地があったんだそうな。特攻艇とは、ベニヤ板でつくったモーターボートに大量の爆薬を積んで敵艦に体当たりするという、とんでもない兵器だ。
その痕跡をあちこちで見ることができた。例えば、上の写真中央の尾根の直下にもトンネルがあったのでチラ見したところ、結構な大きさの空間が形成されていて驚いた。現在は養殖施設に使われているとのことだったが、かつては震洋関連の施設だったらしい。
この地に駐屯した第55震洋隊は出撃しないままに終戦を迎えて、若き特攻隊員たちは故郷に戻っていったそうだ。終戦記念日を明日に控えて、少しだけ勉強してみた。

水を制する堤

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筑後川の下流に「デ・レーケ導流堤」と呼ばれている港湾施設がある。筑後川の幅を狭めることで流速を早め、土砂が堆積しにくい状況をつくり出し、航路として必要な水深を確保するというもの。干満の差が最大で6mもある有明海ならではの工夫だね。

オランダから招いたお雇い外国人のヨハネス・デ・レーケの指導に基づいて、1890(明治23)年に完成したんだそうな。近代化土木遺産を少し歩けば、必ずデ・レーケに当たるよね。もしかすると日本の国土整備において、弘法大師空海より活躍した人物なんじゃないかな。時代はぜんぜん違うけど。

満潮時には水没してしまう見た目はたいへん地味なので、感動ポイントは写真では伝わりにくいと思う。僕自身も以前から興味は持っていたものの、積極的に見ておかねばならないとはそれほど感じていなかった。しかし、現地では時間的スケールと空間的スケールに圧倒されてしまい、しばらく絶句しつつじっくり眺めた。いやあこれは、モーゼもびっくりするくらいの素晴らしさなんじゃないかな。

ところで最近、「導流堤」という呼び名は間違っていた、というニュースを耳にした。あらためて記事を見直してみると、両岸にある突堤こそが「導流堤」であり、「制水工」という表記が正しいことが判明したという。なんだかわかったような、わからないような。「水制工」と呼ぶ突堤もあるので、混乱しちゃうね。

佐賀新聞:筑後川石積み建造物 建設当時は「制水工」
産経新聞:筑後川の「導流堤」、実は「制水工」 地元研究者が調査

 

嘉瀬川くん

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逆三角形に配置された三点があると、人の顔に見えることがある。これは「シミュラクラ現象」という言い回しで広く知られている。

佐賀県にある嘉瀬川ダムのオリフィスゲートと空気管らしき2つの丸い穴は、いかにもそれっぽく感じられる。しかも、( ゚ロ゚)ハッ!!としているように見える。どうやら彼は、たいていのことにうっかり驚いてしまうキャラのようだ。そんなに焦らずに、堂々としていていただきたいよねえ、ダムなんだから。