大山さんの写真展「日本の美しい景観〜大山顕写真展〜」に行ってきた。想像を超える素晴らしさだったので、みんな行くといいよ。というか、いいから行きなさい。明日(11/4)までだけど。
ご存じの通り、彼は「工場」「団地」「高架下建築」「ジャンクション」「打ちっ放し練習場」などを被写体にしている。そして「日本の美しい景観」と称して、これらの写真を大量に展示しちゃっているのだからすごい。なにがすごいって、「写真」をやっている人たち、「景観」をやっている人たち、「美しい国づくり」をやっている人たち(一部の政治家やその周辺)などに対して、一斉に挑戦状を送りつけたようなものなのだから。その心意気だけでも賞賛に値するとは言え、やはり実際が伴っていなければ痛いってのも事実。そんなわけで、心のどこかに余計な心配を抱えながらみなとみらいの会場に行ってきた。
で、展示された写真たち目の当たりにして、息をのんだ。なんだこれはとクラクラドキドキしながら、大きく引き延ばされた大量の写真を一通り見たところで、ようやく朝からなにも食べてなかったことに気付いた。いったん落ち着こうと思い、軽食を済ませてからもう一度じっくり鑑賞した。ちょっとこれ、やっぱりすごい。あらためて言っとくけど、いいからみんな行きなさい。明日までだけど。
感激したことはいくつもあるが、そのひとつが首の旋回を伴うような巨大スケールの対象全体を、超高解像度で写し取っているということ。これがどういうことかというと、どんな距離からでも鑑賞に耐えられ、それぞれの距離で見え方や感じ方が変わってくるのだ。つまり、普通の写真ではなかなか得られない、実際の空間体験に近い状況が生まれているってわけだ。写真を鑑賞している人の行動を観察してみると、かなり頻繁に前後に動いていたしね。
次に、現実には見えていないものまで浮かび上がって見えるってこと。前述のように超広角から超望遠までカバーするとともに、長時間露光により暗視カメラ的に光り輝く世界を見せてくれている。まさに身体機能の拡張である。しかも、露出や色相や彩度だけでなく、パースもバリバリに補整しているので、現実からどんどんかけ離れていっているのだ。こうしてできた「つくりもの感」と先ほどの「実体験感」が錯綜することで、クラクラが生じる仕掛けになっているのではなかろうか。
これって、団地やジャンクションや工場をひたすら撮り続け、どうやってこれらの魅力を伝えられるのかを試行錯誤してきた末にたどり着いた技法なんだろうね。おそらく彼は学生の頃から写真には興味があったのだろうし、ちゃんと技術は磨いてきたのだろうけど、昔からプロカメラマンとして活動してきたわけではない。フォトグラファーを名乗りはじめたのは、書籍をいくつか出版してから、つまり、サラリーマンをやめてからのことだったと思う。だからこそ既存の技術や慣習にとらわれない発想で、フォルムからディテールに至るまでの複雑な階層構造を持つ景観に対する表現方法を獲得できたんじゃないだろうかね。
当然その根源には、彼がもともと持っている特性があるのだろう。フレームで部分を切り取るのではなく全体も細部も周辺も含めた全てを手中に納めようとするわがままさ、実際には見えない物を浮かび上げる身体機能の拡張への憧れ、ありのままではなく自分にとって心地よく解釈された姿に変換する都合の良さ。これって、世界の制約やルールを越える「全能感」とか「万能感」を求めているってことだよね。そのピュアさは、中二と言うよりもはや幼児だよね。つまり「大山顕は幼児である」という結論でいいだろうか。大山さん、すまん。言い過ぎた。