意識しているわけではないけのだが、このところ農業用水ネタが重なっている。この夏にたびたび訪れた東北地方では、農業が関わるドボク施設が相対的に多いのかもしれない。いや、最近の僕の無意識が農業という産業をしっかり捉えたがっているのかもしれない。いずれにしても、今回も水路ネタを。
福島県の中通りにある郡山市は、県庁所在地ではないけれど、とても栄えている。その規模は、仙台に次ぐ東北第二の都市圏とのこと。現在の街の様子からは想像しにくいのだけれど、このエリアはかつて不毛の大地が広がっていたという。つまり水が得にくい土地のために、発展できなかったのだ。逆に言えば、水さえあればなんとかなるポテンシャルはあったので、かねてから猪苗代湖の水を引こうとするアイデアはあったが、奥羽山脈がそれを阻んでいた。
明治に入って諸外国に並び立つための近代化を進めるため、「富国強兵」「殖産興業」が急務となった。そこで明治政府が目をつけたのが、安積原野とも言われる郡山盆地。会津盆地を潤して日本海に注いでいる豊かな水を、近代土木技術によって奥羽山脈をぶち抜く「安積疎水」をつくり、広大な原野を開拓することで「士族授産」も含めた諸問題を解決しようという壮大な計画だ。そして日本初の国直轄農業水利事業が1879(明治12)年から開始された。
安積疏水に関する重要施設のひとつが、上の写真の「十六橋水門」。猪苗代湖から流れ出る日橋川につくられた水門だ。この川は、会津盆地で阿賀川(阿賀野川)に合流し、日本海に注いでいる。この水門は、猪苗代湖の水位を調整して安積疏水に水を流す、いわば猪苗代湖をダム化するための要である。会津地方の水利権のやりとりをどう解決したのかは気になるところだが。
ともあれ、この水門があってこそ、安積原野を広大な農地に変えることができたわけだ。さらに、安積疏水は水力発電や工業用水にも利用されるようになった。こうして開拓のための入植者が増え、食料の劇的な増産が実現し、製糸業や紡績業も発達し、人口が増え、文化が育まれ、新たな産業が興り、というサイクルが生まれて、大都市が成立した。
こうやって郡山の成り立ちを概観してみると、都市の成立要件としての水の役割や、近代化による時間の圧縮を実感する。これまであまり知らなかったけど、かなり特殊な都市なんだね。