はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

真面目さの楽しみ方

名護にある羽地ダムの越流部。ダム湖の水位が一定の高さになった時に、下流に放流するための部位。設定された放流量をスムーズに流すために、限定された区間のコンクリート表面が滑らかなカーブを描いている。その際に生じる平面と曲面のコントラストを伴う不思議な立体構成がたまらない。

僕はこうした眺めに、なかなか言葉にすることができない強烈な魅力を感じてしまう。もちろん、あまり他者に共感されるような感覚ではないことは、後天的に気づいている。同好の士もいるにはいるのだが、基本的に個人ワークとして粛々と写真によってアーカイブし、たまにその写真を眺め直し、時にはブログやSNSなどでその断片を晒すなど、自分の内側に見え隠れする感情を横目で眺めてきた。それも、ずいぶん長い間。

これまでに「シュルレアリスム」「アールブリュット」「ブルータリズム」「キッチュ」「ブリコラージュ」などなど、アート方面の概念が参考になるかもなあと予感しながら、しっかり勉強するわけでもなく、モヤモヤとした思索を楽しんできた。先月「キャンプ」という概念を教えていただき、それと自分の感覚との間に「奇妙な近似と重複がある」ことを知り、がぜん興味が湧いてきた。

そんなわけで今回のメモも、自分のための素材を並べて放置する。まあいつものことではあるが。

 

  • 趣味には体系も具体的な裏づけになるものもない。しかし、趣味の論理とでも言えるものならばある。すなわち、ある趣味の根底にあってそれを支えている終始一貫した感覚である。
  • あるものが持っている「まとも」で公的な意味の背後に、そのものがもたらす私的でふざけた体験を、われわれは見出しているのである。
  • 素朴な、あるいは純粋なキャンプの場合、本質的な要素は真面目さーそれもできそこないの真面目さーである。
  • 第一の感覚、つまり高尚な文化の感覚は、根本において道徳的である。第二の感覚、つまり感情の極限状態を重んずる感覚は、現代の「前衛」芸術の多くに現れているものであって、道徳的情熱と審美的情熱のあいだの緊張によって力を得ている。第三のキャンプは全く審美的なものである。
  • キャンプとは世界をつねに審美的に経験することである。それは、「内容」に対する「様式」の勝利、「道徳」に対する「美学」の勝利、悲劇に対するアイロニーの勝利の具体化なのだ。
  • キャンプ趣味が成り立つのは、その本来の性質上、豊かな社会だけー豊かさの精神病理学を経験しうるような社会やサークルだけーなのである。
  • …キャンプ趣味は、それが楽しんでいるものに共感する。この感覚を身につけているひとびとは、≪キャンプ≫というレッテルを貼ったものを笑っているのではなく、それを楽しんでいるのである。

スーザン・ソンタグ『≪キャンプ≫についてのノート』(1964)より抜粋