無性に知らない土地を散歩したくなり、用務より少し早めのスケジュールで福岡に到着した。いわゆる前乗りというやつだね。もう日が暮れかけていたが、あてもなく足が向くままにホテルの近くを彷徨った。このような体験をする時間を強制的に確保することは、僕自身の気持ちの安定に極めて重要ってことが、コロナ禍を経てよくわかったので。まだ言葉にならないけど、今日もいい刺激が得られた気分。
ぼんやり歩いていると、遠くに高架橋が見えた。それは福岡高速のダブルデッキの高架橋だった。近づいてみると、ダイナミックに重層する道路の構成に感激し、道路線形のカーブにほれぼれし、連続するブラケットにしびれ、無茶している形状の橋脚を応援し、高力ボルトの添接板がつくる陰影にときめき、落橋防止装置のディテールに心奪われた。これまでもそうやって愛でてきた都市内連続高架橋が、今日はなんとなく新鮮に感じられた。
思えば、高架橋を含む橋梁は、僕の中で特別な存在だ。なにしろ過去には橋梁のデザインを数多く手がけていたので。それなりに専門的な知識もあるし、揺るぎない愛着もたっぷりある。その一方、拙著『日常の絶景』で取り上げた室外機やコンテナや砂防などの対象は、自分の専門とするものではなく、後から興味を引かれたものだ。それらを眺める際には、見方そのものを発見する新鮮なよろこびが根底にある。
それに近い感覚が、福岡の都市内高架橋を眺めているときに不意に現れたのだ。これはなにを意味しているのだろうか。現時点ではよくわからないけれど、橋梁を一歩引いて眺め直し、その魅力を再発見するチャンスなのではないだろうか。というか、そのように捉えることで、一段階上の見方を手に入れられるかも知れないな。知っていると思っているものは、見方が固定化されているもんな。なんてことを感じたので、メモを残しておく。うっかり忘れそうだし。